佐倉惣五郎を祀る『宗吾霊堂』
先日ご紹介した「3号線桜並木」の撮影後、宗吾霊堂に立ち寄りました
真穴かるた巡りの第3回目は【そ】『宗吾霊堂』です。
宗吾霊堂へ 続く参道 花吹雪
『佐倉宗吾は千葉県成田市佐倉の農民で、江戸時代初期に重税に苦しむ農民達の為に一揆を起こし、将軍に直訴したので妻子共々死刑になった人である。しかし願いは叶えられたという。成田市に立派な宗吾霊堂が建っている。穴井の霊堂は明治初期に井上宝生が、成田の霊堂から分霊して祀っているものである。祭日は桜の満開の頃の4月3日で、相撲なども催され、穴井の港は近隣の村々からの参拝客で大変賑わったという』(「真穴かるた」解説全文)

徳慶山福高寺の東側、3号線と呼ばれる車道から納骨堂和光院方面に向かい、惣五郎山と呼ばれる小高い山の中腹を目指します。降り積もった落ち葉と小枝を踏み締めながら、鬱蒼と茂る木々の続く小道を登って行くと、急に目の前に広がる陽の差す空間のその先に、まさに今が花吹雪くなか、凛と立つ宗吾霊堂が見えてきました。


現在の霊堂は昭和45年4月3日に再建されたものです。古い御堂は10畳ほどの広さがあり、中で御籠りもしていたそうです。昭和35年、ここにブランコや鉄棒、すべり台などの遊具が設置され、浜に遊園地ができるまでは子どもらの遊び場となっていました。また霊堂下には、彼岸の頃に咲く“彼岸桜”と呼ばれる大きな桜の木もあったそうで、ここで花見をしたり、相撲をとったり、子どもらの歓声が響き渡っていたそうな。
今は昔、見頃の桜を迎えたこの日、ウグイスの鳴く声と風の音の他は何も耳にするものはなく、辺りは静寂に包まれていました。
広場の入口に近い山側には、明治26年に建てられた「道生神」と刻まれた井上宝生氏の碑があります。また、霊堂の傍らにはお世話を続けてこられた中村正行氏の顕彰碑が、有志の手により昭和60年1月に建てられています。現在は正行氏の息子さんである敏史さんが遺志を受け継がれています。
中村家が代々管理されている経緯を、真穴かるた「宗吾霊堂」を編集した井上為雄さんからお聞きしました。いつの頃かは不明ですが、山伏で小笠原熊次郎という人が穴井の地に移り住み、昭和の初期には既に宗吾礼堂の管理をしていたのを覚えているそうです。熊次郎氏の元に中村正行氏の叔母(父・岩蔵氏の妹)にあたるヨシさんが嫁いでいることから、後に中村家が管理を引き継ぐようになったのではないかと。明治初期に分霊して祀り、その後の管理もしていたであろう井上宝生氏が明治26年に没した後の、熊次郎氏までの経緯は定かではないそうです。
中村敏史さんの話によると、老朽化した霊堂の再建話が具体化した折、父正行氏と供に惣五郎の菩提寺である成田市の東勝寺・宗吾霊堂はじめ京都や大阪に出向き、神社仏閣の写真を撮って建築様式を研究したそうです。立派な造りの霊堂ですが、現在は残念ながら地区を上げてのお祭りはなくなり、老朽化した遊具も撤去され、ここで遊ぶ子どもらの姿もなくなりました。それでもお正月、お彼岸、桜の季節、お盆、惣五郎の命日である9月には、体調が許す限りは御供えをしてお参りしています。また東勝寺・宗吾霊堂で行われた惣五郎の350回忌と360回忌にも参列したそうです。
関東の方にはより馴染みの深い佐倉惣五郎、本名は木内惣五郎。1653年に、佐倉藩の悪政に苦しむ農民を救おうと4代将軍家綱に直訴し、磔刑になった名主です。失政を悔い惣五郎の名誉回復を図る佐倉藩主が、百年忌にあたる1752年に「涼風道閑居士」の法号を贈り、「宗吾」を追諡 (死後に “ おくりな=死者への称号 ” を贈ること)したことから「宗吾」と呼ばれるようになりました。1851年、江戸中村座にて浅倉当吾こと佐倉惣五郎がモデルの、百姓一揆をテーマとする「東山桜荘子」という芝居が演じられ、関係者の予想を超える人気作となりました。明治以降「佐倉義民伝」として実名で上演されるようになると、一躍歌舞伎演目のヒーローとなり、義民佐倉惣五郎の名は瞬く間に全国に広まり、各地で祀られるようになったそうです。
郷土の歴史に詳しい山下重徳さんから「現在は西日本で惣五郎さんを祀る所は数ヶ所しか残っていない」という話を聞き、そんな珍しいものだったのかという驚きと、なぜここに祀られているのか、興味を惹かれるようになりました。愛媛のこんな片田舎に存在するには特別な理由があるはずと思い、惣五郎について調べていく内に前出の「歌舞伎」というキーワードにたどり着きました。何か関連がありそうだと直感したのです。
といいますのも、穴井には江戸中期の1778年に伊勢踊りのワキ踊りとして開催され、昭和25年頃まで続いた近隣にはみられない「穴井歌舞伎」という村芝居がありました。明治9年には専用の舞台所を建てるほど、近隣からも大勢の人々が押し寄せる人気芝居だったそうです。ここで人気作・佐倉義民伝を上演する内に感銘を受け、ならばいっそ惣五郎様をお祀りしようではないか…という流れになったのでは?穴井芝居と共に宗吾霊堂も守り続けたのでは?学識の無い単細胞ゆえ、歴史にロマンを馳せてみました。しかしながら、穴井歌舞伎で上演されたという記録だけでなく、演じられたという言い伝えすら残っていないのだそうです。いよいよ以て謎は深まるばかりです。
穴井にある理由については、山下先生から「八幡浜史誌によると明治3年、(八幡浜市五反田)矢野組の治平が首謀者となり百姓一揆を起し、西宇和郡43ヶ村がこれに加わり、穴井浦の頭取は桶屋の力蔵であると記されている。このとき捕縛されたり宇和島に連行されて入牢させられた者も居たようで、このような時期であるので、義民宗吾様の霊堂を建てて関係者の志に報いたのではないだろうか」と教えて頂きました。
お祭りこそ行われなくなりましたが、盆踊り唄(口説=くどき)『之はサアエー 過ぎにし其物語り 国は下総印幡の郡 佐倉領なる岩橋村よ 名主総代惣五郎こそは こころ正直利発なものよ…』とはじまる「佐倉宗吾くどき」が今も残っています。

昭和45年の宗吾霊堂再建に合わせ、時の穴井区長・佐々木勝利氏により植えられた桜の木々。桜と佐倉惣五郎、今や桜の花は春の惣五郎山のシンボルとなっています
=参考資料及びwebサイト=
長田午狂「実説佐倉宗吾伝」、国立歴史民俗博物館「義民の世界・佐倉惣五郎」、雑学の世界・補考「佐倉惣五郎」、真穴小学校開校百周年記念誌「まあな」、真穴座敷雛保存会・研究会「真穴の座敷雛関係資料集」、他。

真穴かるた巡りの第3回目は【そ】『宗吾霊堂』です。
宗吾霊堂へ 続く参道 花吹雪
『佐倉宗吾は千葉県成田市佐倉の農民で、江戸時代初期に重税に苦しむ農民達の為に一揆を起こし、将軍に直訴したので妻子共々死刑になった人である。しかし願いは叶えられたという。成田市に立派な宗吾霊堂が建っている。穴井の霊堂は明治初期に井上宝生が、成田の霊堂から分霊して祀っているものである。祭日は桜の満開の頃の4月3日で、相撲なども催され、穴井の港は近隣の村々からの参拝客で大変賑わったという』(「真穴かるた」解説全文)
穴井宗吾霊堂へご案内

徳慶山福高寺の東側、3号線と呼ばれる車道から納骨堂和光院方面に向かい、惣五郎山と呼ばれる小高い山の中腹を目指します。降り積もった落ち葉と小枝を踏み締めながら、鬱蒼と茂る木々の続く小道を登って行くと、急に目の前に広がる陽の差す空間のその先に、まさに今が花吹雪くなか、凛と立つ宗吾霊堂が見えてきました。



現在の霊堂は昭和45年4月3日に再建されたものです。古い御堂は10畳ほどの広さがあり、中で御籠りもしていたそうです。昭和35年、ここにブランコや鉄棒、すべり台などの遊具が設置され、浜に遊園地ができるまでは子どもらの遊び場となっていました。また霊堂下には、彼岸の頃に咲く“彼岸桜”と呼ばれる大きな桜の木もあったそうで、ここで花見をしたり、相撲をとったり、子どもらの歓声が響き渡っていたそうな。
今は昔、見頃の桜を迎えたこの日、ウグイスの鳴く声と風の音の他は何も耳にするものはなく、辺りは静寂に包まれていました。



広場の入口に近い山側には、明治26年に建てられた「道生神」と刻まれた井上宝生氏の碑があります。また、霊堂の傍らにはお世話を続けてこられた中村正行氏の顕彰碑が、有志の手により昭和60年1月に建てられています。現在は正行氏の息子さんである敏史さんが遺志を受け継がれています。
霊堂のお世話
中村家が代々管理されている経緯を、真穴かるた「宗吾霊堂」を編集した井上為雄さんからお聞きしました。いつの頃かは不明ですが、山伏で小笠原熊次郎という人が穴井の地に移り住み、昭和の初期には既に宗吾礼堂の管理をしていたのを覚えているそうです。熊次郎氏の元に中村正行氏の叔母(父・岩蔵氏の妹)にあたるヨシさんが嫁いでいることから、後に中村家が管理を引き継ぐようになったのではないかと。明治初期に分霊して祀り、その後の管理もしていたであろう井上宝生氏が明治26年に没した後の、熊次郎氏までの経緯は定かではないそうです。
霊堂の今
中村敏史さんの話によると、老朽化した霊堂の再建話が具体化した折、父正行氏と供に惣五郎の菩提寺である成田市の東勝寺・宗吾霊堂はじめ京都や大阪に出向き、神社仏閣の写真を撮って建築様式を研究したそうです。立派な造りの霊堂ですが、現在は残念ながら地区を上げてのお祭りはなくなり、老朽化した遊具も撤去され、ここで遊ぶ子どもらの姿もなくなりました。それでもお正月、お彼岸、桜の季節、お盆、惣五郎の命日である9月には、体調が許す限りは御供えをしてお参りしています。また東勝寺・宗吾霊堂で行われた惣五郎の350回忌と360回忌にも参列したそうです。
惣五郎人気と歌舞伎
関東の方にはより馴染みの深い佐倉惣五郎、本名は木内惣五郎。1653年に、佐倉藩の悪政に苦しむ農民を救おうと4代将軍家綱に直訴し、磔刑になった名主です。失政を悔い惣五郎の名誉回復を図る佐倉藩主が、百年忌にあたる1752年に「涼風道閑居士」の法号を贈り、「宗吾」を
穴井にある不思議
郷土の歴史に詳しい山下重徳さんから「現在は西日本で惣五郎さんを祀る所は数ヶ所しか残っていない」という話を聞き、そんな珍しいものだったのかという驚きと、なぜここに祀られているのか、興味を惹かれるようになりました。愛媛のこんな片田舎に存在するには特別な理由があるはずと思い、惣五郎について調べていく内に前出の「歌舞伎」というキーワードにたどり着きました。何か関連がありそうだと直感したのです。
といいますのも、穴井には江戸中期の1778年に伊勢踊りのワキ踊りとして開催され、昭和25年頃まで続いた近隣にはみられない「穴井歌舞伎」という村芝居がありました。明治9年には専用の舞台所を建てるほど、近隣からも大勢の人々が押し寄せる人気芝居だったそうです。ここで人気作・佐倉義民伝を上演する内に感銘を受け、ならばいっそ惣五郎様をお祀りしようではないか…という流れになったのでは?穴井芝居と共に宗吾霊堂も守り続けたのでは?学識の無い単細胞ゆえ、歴史にロマンを馳せてみました。しかしながら、穴井歌舞伎で上演されたという記録だけでなく、演じられたという言い伝えすら残っていないのだそうです。いよいよ以て謎は深まるばかりです。
穴井にある理由については、山下先生から「八幡浜史誌によると明治3年、(八幡浜市五反田)矢野組の治平が首謀者となり百姓一揆を起し、西宇和郡43ヶ村がこれに加わり、穴井浦の頭取は桶屋の力蔵であると記されている。このとき捕縛されたり宇和島に連行されて入牢させられた者も居たようで、このような時期であるので、義民宗吾様の霊堂を建てて関係者の志に報いたのではないだろうか」と教えて頂きました。
お祭りこそ行われなくなりましたが、盆踊り唄(口説=くどき)『之はサアエー 過ぎにし其物語り 国は下総印幡の郡 佐倉領なる岩橋村よ 名主総代惣五郎こそは こころ正直利発なものよ…』とはじまる「佐倉宗吾くどき」が今も残っています。
惣五郎山のシンボル

昭和45年の宗吾霊堂再建に合わせ、時の穴井区長・佐々木勝利氏により植えられた桜の木々。桜と佐倉惣五郎、今や桜の花は春の惣五郎山のシンボルとなっています

=参考資料及びwebサイト=
長田午狂「実説佐倉宗吾伝」、国立歴史民俗博物館「義民の世界・佐倉惣五郎」、雑学の世界・補考「佐倉惣五郎」、真穴小学校開校百周年記念誌「まあな」、真穴座敷雛保存会・研究会「真穴の座敷雛関係資料集」、他。
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