「真穴の座敷雛」の歴史
座敷雛はいつ頃から始まったのですか?ご質問を良くいただきますので、座敷雛の歴史について簡単にご説明を!
はじまりは古く、時をさかのぼること231年前、江戸時代中期の天明3年(1783年)の頃と推測されます。穴井には明和2年(1765年)から始まり今なお続く愛媛県指定無形民俗文化財「長命講伊勢踊り」があります。そのワキ踊りとして安永7年(1778年)に「穴井歌舞伎」が開催(薬師神社家記録より)され、天明3年の頃にその舞台装置など、歌舞伎の演出技法を従来のひな祭りに取り入れたのが座敷雛のはじまりとされています(八幡浜市文化財参考)。しかし確かな資料は残っていません。
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その後1841年に始まる江戸3大改革の一つ天保の改革で中断・縮小されていましたが、江戸末期の文久元年(1861年)の穴井・加藤寅太郎の実母タツノのひな祭りに「松の枝、枯れ木をひな壇に飾り好評」との言い伝えから、1862年頃からほぼ現在のような形になったと言われています。265年続いた江戸時代が幕を閉じ、年号が慶応から明治に変わる6年前のことです。
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明治中期に穴井で機織工業が盛んになり、裕福になるにつれ、ひな祭りは一層華やかになります。
大正の初め、真穴地区に製網業や綿織物業が起こると、これまで以上に女工さんが必要となり、女の子が生まれると重宝がられ、貴重な労働力となって現金収入の道が開けるようになりました。
また、真穴が「アメリカ村」と呼ばれたように、明治から大正にかけて多くのアメリカ渡航者を生み、成功した移民者の寄付や仕送りなどで真穴はとても裕福な時代を迎えるのです。
さらに、明治33年に真網代に初めて導入された温州みかんは、徐々に養蚕業からの転換を図りながら、昭和39年に天皇杯を受賞するに至ると、真穴みかんのブランド化に成功した真穴地区は、経済的に安定したとても豊かな地域になります。
このように、「女工さん」「アメリカ移民」「真穴みかん」の三つの要素が、愛媛の片田舎で絢爛豪華な雛祭りがかくも盛大に続いていることの謎解きとなるのです。もちろん、地縁・血縁による「結(ゆい)」の精神が根底にあるのは言うまでもありません。
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太平洋戦争中は規模は縮小されながらも続けられ、現在に至っています。昭和30年代にはテレビ・新聞等に取り上げられはじめ、「座敷雛」の名称が固有名詞化されてきます。これはマスコミによる造語で、地元では今でも「ひなさま」と呼ぶのが一般的ですが、「座敷雛」の名称は言い得て妙、対外的には「座敷雛」の名称を使うようになりました。
(私事ではありますが、まだかわいらしい子どもだったその昭和30年代は、ほとんど地元の人だけで観て廻る、今思うとかなり贅沢な行事でした。その後地元を離れ都会に移り住んでいた頃、全国ニュースなどで座敷雛が紹介されたときにはとても懐かしく感じたものです。今から8年前にはNHKさんによる座敷雛の特番が幾度と全国放送され、知人や友人に片っ端から連絡をいれたことを思い出します。ふるさとに戻り今はこうしてお伝えできる側にいることを嬉しく思う今日この頃であります…。『おまえの話はいいから、先に進め?』 ハイ、わかりました!)
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平成8年に「真穴座敷雛保存会」が結成され、平成14年には座敷雛が八幡浜市無形民俗文化財に指定されました。また平成15年に座敷雛保存会の研究機関として「真穴座敷雛研究会」が設立され、平成17年には座敷雛保存会ホームページを開設するに至ります。よそには見られない貴重な伝統文化としての再認識とその保存・研究・周知に気運が高まっていきます。
手元の資料集にある年表や記述をまとめながら230年をザッと流してきましたが、最後までお付き合い頂きありがとうございました。地元の人だけで楽しんでいた座敷雛も、八幡浜市商工観光課・八幡浜市観光物産協会さんをはじめ、マスコミ各社さんによるご紹介もあって、今では観光客の数も多い時で2日間で20、000人規模に膨れ上がっています。
人口1300人、普段なら人よりもノラ猫の数の方が多そうな町中も、 “ シ~ン ” という文字が宙に浮かんできそうな静かな路地も、この2日間は車や人であふれ、猫もオチオチ眠ってなどおれぬほど、賑わいを見せる真穴の座敷雛です。
※参考:「真穴の座敷雛関係資料集 平成24年版」 =真穴座敷雛保存会・研究会編集=
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平成27年の座敷雛資料展「座敷雛誕生物語」で展示されたフローチャートを掲載しました。

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次回は公民館で開催される座敷雛資料展についてです。
姉妹記事:座敷雛を10倍楽しく見る方法!
真穴へのアクセス
誕生は江戸中期
はじまりは古く、時をさかのぼること231年前、江戸時代中期の天明3年(1783年)の頃と推測されます。穴井には明和2年(1765年)から始まり今なお続く愛媛県指定無形民俗文化財「長命講伊勢踊り」があります。そのワキ踊りとして安永7年(1778年)に「穴井歌舞伎」が開催(薬師神社家記録より)され、天明3年の頃にその舞台装置など、歌舞伎の演出技法を従来のひな祭りに取り入れたのが座敷雛のはじまりとされています(八幡浜市文化財参考)。しかし確かな資料は残っていません。▶もくじ
成長期は幕末
その後1841年に始まる江戸3大改革の一つ天保の改革で中断・縮小されていましたが、江戸末期の文久元年(1861年)の穴井・加藤寅太郎の実母タツノのひな祭りに「松の枝、枯れ木をひな壇に飾り好評」との言い伝えから、1862年頃からほぼ現在のような形になったと言われています。265年続いた江戸時代が幕を閉じ、年号が慶応から明治に変わる6年前のことです。▶もくじ
発展に3つのキーワード
明治中期に穴井で機織工業が盛んになり、裕福になるにつれ、ひな祭りは一層華やかになります。大正の初め、真穴地区に製網業や綿織物業が起こると、これまで以上に女工さんが必要となり、女の子が生まれると重宝がられ、貴重な労働力となって現金収入の道が開けるようになりました。
また、真穴が「アメリカ村」と呼ばれたように、明治から大正にかけて多くのアメリカ渡航者を生み、成功した移民者の寄付や仕送りなどで真穴はとても裕福な時代を迎えるのです。
さらに、明治33年に真網代に初めて導入された温州みかんは、徐々に養蚕業からの転換を図りながら、昭和39年に天皇杯を受賞するに至ると、真穴みかんのブランド化に成功した真穴地区は、経済的に安定したとても豊かな地域になります。
このように、「女工さん」「アメリカ移民」「真穴みかん」の三つの要素が、愛媛の片田舎で絢爛豪華な雛祭りがかくも盛大に続いていることの謎解きとなるのです。もちろん、地縁・血縁による「結(ゆい)」の精神が根底にあるのは言うまでもありません。
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座敷雛の呼称 地元では「ひなさま」
太平洋戦争中は規模は縮小されながらも続けられ、現在に至っています。昭和30年代にはテレビ・新聞等に取り上げられはじめ、「座敷雛」の名称が固有名詞化されてきます。これはマスコミによる造語で、地元では今でも「ひなさま」と呼ぶのが一般的ですが、「座敷雛」の名称は言い得て妙、対外的には「座敷雛」の名称を使うようになりました。(私事ではありますが、まだかわいらしい子どもだったその昭和30年代は、ほとんど地元の人だけで観て廻る、今思うとかなり贅沢な行事でした。その後地元を離れ都会に移り住んでいた頃、全国ニュースなどで座敷雛が紹介されたときにはとても懐かしく感じたものです。今から8年前にはNHKさんによる座敷雛の特番が幾度と全国放送され、知人や友人に片っ端から連絡をいれたことを思い出します。ふるさとに戻り今はこうしてお伝えできる側にいることを嬉しく思う今日この頃であります…。『おまえの話はいいから、先に進め?』 ハイ、わかりました!)
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保存と研究・周知
平成8年に「真穴座敷雛保存会」が結成され、平成14年には座敷雛が八幡浜市無形民俗文化財に指定されました。また平成15年に座敷雛保存会の研究機関として「真穴座敷雛研究会」が設立され、平成17年には座敷雛保存会ホームページを開設するに至ります。よそには見られない貴重な伝統文化としての再認識とその保存・研究・周知に気運が高まっていきます。 
手元の資料集にある年表や記述をまとめながら230年をザッと流してきましたが、最後までお付き合い頂きありがとうございました。地元の人だけで楽しんでいた座敷雛も、八幡浜市商工観光課・八幡浜市観光物産協会さんをはじめ、マスコミ各社さんによるご紹介もあって、今では観光客の数も多い時で2日間で20、000人規模に膨れ上がっています。
人口1300人、普段なら人よりもノラ猫の数の方が多そうな町中も、 “ シ~ン ” という文字が宙に浮かんできそうな静かな路地も、この2日間は車や人であふれ、猫もオチオチ眠ってなどおれぬほど、賑わいを見せる真穴の座敷雛です。
※参考:「真穴の座敷雛関係資料集 平成24年版」 =真穴座敷雛保存会・研究会編集=
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【附録】座敷雛フローチャート
平成27年の座敷雛資料展「座敷雛誕生物語」で展示されたフローチャートを掲載しました。
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次回は公民館で開催される座敷雛資料展についてです。
姉妹記事:座敷雛を10倍楽しく見る方法!
「座敷雛(ざしきびな)」に関する記事はいくつか掲載してきました。が、情報が分散して『あっちこっち見に行くのが面倒』というご意見もチラホラ。安心してください!…
真穴へのアクセス
真穴地区は四国・愛媛県の南西部に位置する八幡浜(やわたはま)市にあります。八幡浜市は松山市と宇和島市の中間にあり、やや宇和島市寄りに位置します。全長約50kmの...
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