「真穴の座敷雛」を10倍楽しく見る方法!
「座敷雛 」に関する記事はいくつか掲載してきました。が、情報が分散して『あっちこっち見に行くのが面倒』というご意見もチラホラ。安心してください!それらを一つの記事にまとめてみました。しかも本邦初公開の内容も含んでいます。そこでタイトルを大胆にも「座敷雛を10倍楽しく見る方法」としてみました。これを読んでいただければ、今日からあなたも “ 座敷雛ツウ ” になれる
…かもヨ
※ご注意:個人の感想であり、効果・効能を保証するものではありません。『これ読んで座敷雛見たけんど、8倍しか楽しめなんだゾ!』などといった苦情は一切受け付けておりません。悪しからずです。
1 座敷雛はいつから始まった?
2 「棟梁制」ってなんだ?
3 個性あふれる技法
4 雛さまを「建てる」
5 テーマに沿って建てる
6 遠近法や飾り付けのあれこれ
7 お供えに味噌とワケギ?
8 人形の位置はどっちが正解?
9 アッという間に「雛あらし」
10 資料展を見てから座敷雛を見る?

資料展を主催する座敷雛研究会会長さんによると、この質問が一番多いと。江戸時代中期に、穴井で長命講伊勢踊りが始まり、そのワキ踊りとして「穴井歌舞伎」が派生します。浅間山が大噴火する1783年(天明3年)、歌舞伎の技術集団がその演出技法を従来のひな祭りに取り入れたことで「座敷雛」が誕生しました。2016年の今日まで233年続いています。現在のような様式になるのは、80年ほど下った江戸時代末期の1862年の頃からです。年号が慶応から明治に変わる6年前のことです。
この地で連綿と続いた理由に、お互いに助け合う「結(ゆい)の精神」以外に、「女工さん」「アメリカ移民」「真穴みかん」という3つのキーワードがあげられます。詳細は「真穴の座敷雛の歴史」をご覧ください。ちなみに、「座敷雛」という呼び名は、昭和30年代にマスコミによって付けられたもので、地元では今でも「ひなさま」と呼んでいます。平成14年に八幡浜市無形民俗文化財に指定されました。
▶もくじ

現代の「真穴の座敷雛」の特徴の一つに「棟梁制」があります。昔は親類縁者が当家に集まり、話し合って造っていました。大正の頃から、美術的センスがあり、盆栽や日本庭園に造詣が深く、造園などの技術に卓越した人が「指導者」として要請されるようになり、昭和初期からこの「棟梁制」が敷かれました。棟梁さんには穴井歌舞伎の流れを汲む人もいれば、独自で研究された人たちもいます。棟梁制によって、能率的で経済的な座敷雛へと変わっていきます。
座敷雛研究会さんが現在把握している現役棟梁さんの数は10人です。資格や免許がある訳ではなく、研究会さんとしての基準は、委託されて建てた座敷雛が「3軒以上」あれば「棟梁」とみなしています。棟梁といっても大工さんではなく、農業(みかん)や漁業(養殖)を生業としています。また、棟梁さん以外でも、娘の父親や祖父などの身内が、その時だけ自らが棟梁となるケースもあります。
▶もくじ

棟梁制になったことで、作品にはその人固有の手法が披露されるようになりました。例えば、本物の石を積み上げて石垣を再現したり、庭石や木々を巧みに配置して風景をリアルに再現したり、水を使って川や池を再現し、動く水車やせせらぎの音を演出するなどの写実的・動的作品。
一方、古都の雅な風景を「わび・さび」で表現したり、アクリル板などの反射を利用して川面を表現したり、染めたおがくずで菜の花や山桜を表現したり、蚊帳を吊って春霞を表現するなどの印象的・静的作品。若い父親自身が造るときは、近代的な感覚や手法を取り入れた革新的作品なども。
古典的な情景を題材とする棟梁さん、遠近法を重点に置く棟梁さん、実際の風景再現に重きを置く棟梁さんなど、棟梁さんにより、その年々により作風が異なり、一口に座敷雛といっても、その多様性・可能性を存分にかいま見ることができます。
▶もくじ

ここまで、雛さまを「造る」という表現を使いましたが、実際には「建てる」と言います。家具一式や畳・襖などを取り払い、何も無くなったところで、材木を組んだり、みかん箱や樹脂パレットなどを土台にして、床面に起伏を設けたりしていきます。一から造り上げますので、まさに「建てる」という表現がぴったりです。
住宅事情により、必ずしも座敷で建てるとは限りません。倉庫で建てる場合であっても、真穴と座敷雛の発展を支えてきた「真穴みかん」の倉庫だからこそ、ご当家の思い入れも“ひとしお”なんです。春のお彼岸が明けたあたりから、親類や近所・友人が集まり、棟梁さんの指示の下、のべ100人前後で約一週間かけて雛さまを建てます。
女の子の初節句を祝うひな祭りですが、跡継ぎの家に長女が生まれたときだけ行います。戦前までは旧暦の3月3日に行われていましたが、戦後になってから新暦の4月2日と3日になりました。旧暦3月3日にほど近い月遅れの開催ですので、季節はちょうど桃の花が終盤を迎え、桜の花が咲き始める時期と重なります。真穴の座敷雛で飾られるのは桃の花ではなく、桜の花になるのです。
▶もくじ

目に付くところに「題名」が書かれた木板が置かれています。これは棟梁さんが命名したもので、作品を一言で表現しています。できれば一番最初に見て欲しい部分です。その家の間取りなどを考慮しながら、初節句を祝う気持ちを込めて構想が練られます。旅行先で出会った風景、印象に残る場所、時には「富士山の世界遺産登録」など、世間の出来事が題材になることも。ですので、同じ棟梁さんが建てたものでも毎年違った作品になるのです。テーマを設定するようになったのは昭和30年代からです。
「富士朝陽」
富士山のように大きく美しく、朝日のように明るく希望に満ちた子供に育つように。
「花 山 酔」
健康で健やかな成長を祈り、春爛漫の情景を思い浮かべながら。
「ふるさと」
風景を見ながら昔を懐かしみ、家族みんなで健やかな成長を見守って欲しい。
「竹林の里」
天に向け、真っ直ぐ伸びる竹のように、すくすくと成長して欲しい。
「古都の春」「大和春容」「山里の春」「よろこび」「春 陽」・・・etc.
▶もくじ

限られた空間に建てられますので、遠近感を持たせるよう様々な工夫が施されています。天幕は手前のものは色が濃く、奥へいくほど淡くなります。盆栽は手前が高く幹が太いものを、奥へ行くほど低く細いものを並べます。川の流れはくねらせて、上流へいくほど川幅は狭くなります。染めたおがくずで造る山肌は、奥の方が色淡く、遠くの高い山の頂には石灰で造った雪を抱かせることも。このような遠近法を見て感じて楽しむのも醍醐味のひとつです。また、主役の雛壇と風景との融合、見る位置によって異なる木々の重なり具合の変化などもご堪能ください。
盆栽などは近所からの借り物が多く、苔などは直前に山で採取します。水田の稲や草原の草は、事前に籾を蒔いて発芽させています。藁葺の家や、水車小屋、小舟、橋などといった小物類は棟梁さん所有のものが殆どですので、棟梁さん同士でお互いに貸し借りされることも。桜の幹や枝は本物を使用しますが、蕾や花はティッシュペーパーで一つ一つ手造りします。女性陣が年明け早々から準備を始め、5000~8000個ほど用意されます。ちなみに、昨年は座敷雛史上初めて「枝垂桜」が用いられました。
座敷の柱には布を巻いて目隠しされているのにお気づきでしょうか。これはご当家の祖母が使っていた、芯を解かれた帯などが使われているんですよ。雛人形は母方の実家から贈られます。他にも親戚から贈られる小物などもあります。棟梁さんは、これらご当家や親戚の想いを酌みながら、構想に沿って配置していきます。
▶もくじ

『座敷雛の始まりはいつ?』に次いで多い質問が、これらの独特なお供え物の意味です。「味噌は栄養もありおいしく、熟成発酵させることから人格円満な成長を、ワケギは株別れして次々に芽がでることから子孫繁栄を願い、鯛に伊勢エビ、サザエやアワビやニナなどの魚介類をお供えするのは、お雛様は自分では動けないので、動いているものを喜ぶから。」お供え物にもちゃんと意味があるんですね。
真穴の「雛あられ」も少し変わっています。4色なのは、桃=春、緑=夏、黄=秋、白=冬と四季を表し、1年を通して健やかな成長を祈るという意味があります。この4色のあられに、炒った米とピーナッツを加え、水あめで固めて丸くした形は、他府県からお越しの方には珍しいようですよ。また、呼び名は「とじ豆」や「ひな豆」が多く、中には「にぎり豆」と呼んでいる人もいます。
▶もくじ

豪華な造りに少し目が慣れてきて、冷静に見渡していてふと気付くことがあります。向かって右が男雛だったり、女雛だったりすることに。どちらが正解、ということでは無いそうです。日本では古来「左」(向かって右)が尊いとされていますので、男雛は向かって右に配置されてきました。
ところが、明治維新後の西洋化が進む中で、国際儀礼では「右」(向かって左)が上位になることから、この慣習が取り入れられ、雛人形も男雛が向かって左になるものが現れ始めます。この流れを決定付けた出来事が「昭和天皇の即位の礼」と言われています。欧米の要人が列席するなか、国際儀礼に従い天皇陛下が向かって左に、皇后様が向かって右に立たれました。それ以降、雛人形(関東雛)業界では「男雛が向かって左」に配置されるようになったのだとか。
京都で作られる京雛は、古式にのっとり現在でも「男雛が向かって右」だそうです。はて、真穴の座敷雛はどうなのかな?と直近の過去12年・33軒の座敷雛を調べてみました。結果は予想していたものとは逆で、男雛が向かって左が圧倒的に多く26軒、向かって右は7軒でした。関東雛が主流の昨今を象徴する数字で、真穴では特に決まりごとは無いみたいですね。
余談ですが、内裏雛とは男雛と女雛の一対を指すそうです。童謡「うれしいひなまつり」で唄われているように、男雛を「お内裏様」と呼ぶのは誤りだそうですよ。
▶もくじ

絢爛豪華な座敷雛も、4月2日・3日の2日間のお披露目が終わると、もう4日の早朝から取り壊しが始まります。雛あらしです。長く飾ると娘の嫁入りが遅れるとの理由からですが、もったいないなぁ…と地元の者でさえ思ってしまいます。この後、親戚やお手伝いをした人たちを招いて祝宴が催されます。子供たちにお供え物を振舞うことを雛あらしと呼んでいる地域もありますが、ここ真穴では「取り壊し」から「祝宴」までの一連の行為をこう呼びます。
古老の話によりますと、昭和25年頃までは、4月4日に雛飾りを片付けたあと、海岸に行って磯遊びをする風習があったそうです。お供えの項目で紹介しましたように、お雛様は動く魚介類を見て喜ぶことから、浜でお供え用のニナ(現在はサザエ)を採っていた名残りではないだろうかと。現在はこの習慣は残っていません。
▶もくじ

真穴座敷雛保存会・研究会さんは、地域住民の方はもとより、地区外から座敷雛を見に来られる方々にも、真穴の座敷雛への知識と理解を深めていただきたいと、座敷雛公開日の4月2日と3日の両日「座敷雛資料展」を公民館で開催しています。歴史年表をはじめ、現存する最古の写真、戦前・戦後の写真、穴井歌舞伎の衣装など、貴重な資料を数多く展示しています。ステージでは企画展が催される年もあります。
また、研究会会長さんによる解説は好評で、『先にここへ来てから座敷雛を見ればよかった…』という声もしばしば。1日5~6回、不定時ですのでお聞き逃しされる場合もあるかと思いますが、時間の許す限り資料展にも足をお運びいただければと。
※詳細は「座敷雛資料展カテゴリ」からご覧ください。

(初めて枝垂桜が使われた2015年の座敷雛)
※参考:「真穴の座敷雛関係資料集」(座敷雛保存会・研究会)、特別番組「真穴の座敷雛」(八西CATV)、他。
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真穴へのアクセス


※ご注意:個人の感想であり、効果・効能を保証するものではありません。『これ読んで座敷雛見たけんど、8倍しか楽しめなんだゾ!』などといった苦情は一切受け付けておりません。悪しからずです。
もくじ
1 座敷雛はいつから始まった?
2 「棟梁制」ってなんだ?
3 個性あふれる技法
4 雛さまを「建てる」
5 テーマに沿って建てる
6 遠近法や飾り付けのあれこれ
7 お供えに味噌とワケギ?
8 人形の位置はどっちが正解?
9 アッという間に「雛あらし」
10 資料展を見てから座敷雛を見る?
座敷雛はいつから始まったの?


資料展を主催する座敷雛研究会会長さんによると、この質問が一番多いと。江戸時代中期に、穴井で長命講伊勢踊りが始まり、そのワキ踊りとして「穴井歌舞伎」が派生します。浅間山が大噴火する1783年(天明3年)、歌舞伎の技術集団がその演出技法を従来のひな祭りに取り入れたことで「座敷雛」が誕生しました。2016年の今日まで233年続いています。現在のような様式になるのは、80年ほど下った江戸時代末期の1862年の頃からです。年号が慶応から明治に変わる6年前のことです。
この地で連綿と続いた理由に、お互いに助け合う「結(ゆい)の精神」以外に、「女工さん」「アメリカ移民」「真穴みかん」という3つのキーワードがあげられます。詳細は「真穴の座敷雛の歴史」をご覧ください。ちなみに、「座敷雛」という呼び名は、昭和30年代にマスコミによって付けられたもので、地元では今でも「ひなさま」と呼んでいます。平成14年に八幡浜市無形民俗文化財に指定されました。
▶もくじ
「棟梁制」ってなんだ?


現代の「真穴の座敷雛」の特徴の一つに「棟梁制」があります。昔は親類縁者が当家に集まり、話し合って造っていました。大正の頃から、美術的センスがあり、盆栽や日本庭園に造詣が深く、造園などの技術に卓越した人が「指導者」として要請されるようになり、昭和初期からこの「棟梁制」が敷かれました。棟梁さんには穴井歌舞伎の流れを汲む人もいれば、独自で研究された人たちもいます。棟梁制によって、能率的で経済的な座敷雛へと変わっていきます。
座敷雛研究会さんが現在把握している現役棟梁さんの数は10人です。資格や免許がある訳ではなく、研究会さんとしての基準は、委託されて建てた座敷雛が「3軒以上」あれば「棟梁」とみなしています。棟梁といっても大工さんではなく、農業(みかん)や漁業(養殖)を生業としています。また、棟梁さん以外でも、娘の父親や祖父などの身内が、その時だけ自らが棟梁となるケースもあります。
▶もくじ
個性あふれる技法に注目


棟梁制になったことで、作品にはその人固有の手法が披露されるようになりました。例えば、本物の石を積み上げて石垣を再現したり、庭石や木々を巧みに配置して風景をリアルに再現したり、水を使って川や池を再現し、動く水車やせせらぎの音を演出するなどの写実的・動的作品。
一方、古都の雅な風景を「わび・さび」で表現したり、アクリル板などの反射を利用して川面を表現したり、染めたおがくずで菜の花や山桜を表現したり、蚊帳を吊って春霞を表現するなどの印象的・静的作品。若い父親自身が造るときは、近代的な感覚や手法を取り入れた革新的作品なども。
古典的な情景を題材とする棟梁さん、遠近法を重点に置く棟梁さん、実際の風景再現に重きを置く棟梁さんなど、棟梁さんにより、その年々により作風が異なり、一口に座敷雛といっても、その多様性・可能性を存分にかいま見ることができます。
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雛さまを「建てる」と言います


ここまで、雛さまを「造る」という表現を使いましたが、実際には「建てる」と言います。家具一式や畳・襖などを取り払い、何も無くなったところで、材木を組んだり、みかん箱や樹脂パレットなどを土台にして、床面に起伏を設けたりしていきます。一から造り上げますので、まさに「建てる」という表現がぴったりです。
住宅事情により、必ずしも座敷で建てるとは限りません。倉庫で建てる場合であっても、真穴と座敷雛の発展を支えてきた「真穴みかん」の倉庫だからこそ、ご当家の思い入れも“ひとしお”なんです。春のお彼岸が明けたあたりから、親類や近所・友人が集まり、棟梁さんの指示の下、のべ100人前後で約一週間かけて雛さまを建てます。
女の子の初節句を祝うひな祭りですが、跡継ぎの家に長女が生まれたときだけ行います。戦前までは旧暦の3月3日に行われていましたが、戦後になってから新暦の4月2日と3日になりました。旧暦3月3日にほど近い月遅れの開催ですので、季節はちょうど桃の花が終盤を迎え、桜の花が咲き始める時期と重なります。真穴の座敷雛で飾られるのは桃の花ではなく、桜の花になるのです。
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毎年ちがったテーマに沿って建てられます


目に付くところに「題名」が書かれた木板が置かれています。これは棟梁さんが命名したもので、作品を一言で表現しています。できれば一番最初に見て欲しい部分です。その家の間取りなどを考慮しながら、初節句を祝う気持ちを込めて構想が練られます。旅行先で出会った風景、印象に残る場所、時には「富士山の世界遺産登録」など、世間の出来事が題材になることも。ですので、同じ棟梁さんが建てたものでも毎年違った作品になるのです。テーマを設定するようになったのは昭和30年代からです。
「富士朝陽」
富士山のように大きく美しく、朝日のように明るく希望に満ちた子供に育つように。
「花 山 酔」
健康で健やかな成長を祈り、春爛漫の情景を思い浮かべながら。
「ふるさと」
風景を見ながら昔を懐かしみ、家族みんなで健やかな成長を見守って欲しい。
「竹林の里」
天に向け、真っ直ぐ伸びる竹のように、すくすくと成長して欲しい。
「古都の春」「大和春容」「山里の春」「よろこび」「春 陽」・・・etc.
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遠近法や飾り付けのあれこれ


限られた空間に建てられますので、遠近感を持たせるよう様々な工夫が施されています。天幕は手前のものは色が濃く、奥へいくほど淡くなります。盆栽は手前が高く幹が太いものを、奥へ行くほど低く細いものを並べます。川の流れはくねらせて、上流へいくほど川幅は狭くなります。染めたおがくずで造る山肌は、奥の方が色淡く、遠くの高い山の頂には石灰で造った雪を抱かせることも。このような遠近法を見て感じて楽しむのも醍醐味のひとつです。また、主役の雛壇と風景との融合、見る位置によって異なる木々の重なり具合の変化などもご堪能ください。
盆栽などは近所からの借り物が多く、苔などは直前に山で採取します。水田の稲や草原の草は、事前に籾を蒔いて発芽させています。藁葺の家や、水車小屋、小舟、橋などといった小物類は棟梁さん所有のものが殆どですので、棟梁さん同士でお互いに貸し借りされることも。桜の幹や枝は本物を使用しますが、蕾や花はティッシュペーパーで一つ一つ手造りします。女性陣が年明け早々から準備を始め、5000~8000個ほど用意されます。ちなみに、昨年は座敷雛史上初めて「枝垂桜」が用いられました。
座敷の柱には布を巻いて目隠しされているのにお気づきでしょうか。これはご当家の祖母が使っていた、芯を解かれた帯などが使われているんですよ。雛人形は母方の実家から贈られます。他にも親戚から贈られる小物などもあります。棟梁さんは、これらご当家や親戚の想いを酌みながら、構想に沿って配置していきます。
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ひな祭りに味噌とワケギ?伊勢エビにサザエ?



『座敷雛の始まりはいつ?』に次いで多い質問が、これらの独特なお供え物の意味です。「味噌は栄養もありおいしく、熟成発酵させることから人格円満な成長を、ワケギは株別れして次々に芽がでることから子孫繁栄を願い、鯛に伊勢エビ、サザエやアワビやニナなどの魚介類をお供えするのは、お雛様は自分では動けないので、動いているものを喜ぶから。」お供え物にもちゃんと意味があるんですね。
真穴の「雛あられ」も少し変わっています。4色なのは、桃=春、緑=夏、黄=秋、白=冬と四季を表し、1年を通して健やかな成長を祈るという意味があります。この4色のあられに、炒った米とピーナッツを加え、水あめで固めて丸くした形は、他府県からお越しの方には珍しいようですよ。また、呼び名は「とじ豆」や「ひな豆」が多く、中には「にぎり豆」と呼んでいる人もいます。
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人形の位置はどっちが正解?


豪華な造りに少し目が慣れてきて、冷静に見渡していてふと気付くことがあります。向かって右が男雛だったり、女雛だったりすることに。どちらが正解、ということでは無いそうです。日本では古来「左」(向かって右)が尊いとされていますので、男雛は向かって右に配置されてきました。
ところが、明治維新後の西洋化が進む中で、国際儀礼では「右」(向かって左)が上位になることから、この慣習が取り入れられ、雛人形も男雛が向かって左になるものが現れ始めます。この流れを決定付けた出来事が「昭和天皇の即位の礼」と言われています。欧米の要人が列席するなか、国際儀礼に従い天皇陛下が向かって左に、皇后様が向かって右に立たれました。それ以降、雛人形(関東雛)業界では「男雛が向かって左」に配置されるようになったのだとか。
京都で作られる京雛は、古式にのっとり現在でも「男雛が向かって右」だそうです。はて、真穴の座敷雛はどうなのかな?と直近の過去12年・33軒の座敷雛を調べてみました。結果は予想していたものとは逆で、男雛が向かって左が圧倒的に多く26軒、向かって右は7軒でした。関東雛が主流の昨今を象徴する数字で、真穴では特に決まりごとは無いみたいですね。
余談ですが、内裏雛とは男雛と女雛の一対を指すそうです。童謡「うれしいひなまつり」で唄われているように、男雛を「お内裏様」と呼ぶのは誤りだそうですよ。
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アッという間に「雛あらし」


絢爛豪華な座敷雛も、4月2日・3日の2日間のお披露目が終わると、もう4日の早朝から取り壊しが始まります。雛あらしです。長く飾ると娘の嫁入りが遅れるとの理由からですが、もったいないなぁ…と地元の者でさえ思ってしまいます。この後、親戚やお手伝いをした人たちを招いて祝宴が催されます。子供たちにお供え物を振舞うことを雛あらしと呼んでいる地域もありますが、ここ真穴では「取り壊し」から「祝宴」までの一連の行為をこう呼びます。
古老の話によりますと、昭和25年頃までは、4月4日に雛飾りを片付けたあと、海岸に行って磯遊びをする風習があったそうです。お供えの項目で紹介しましたように、お雛様は動く魚介類を見て喜ぶことから、浜でお供え用のニナ(現在はサザエ)を採っていた名残りではないだろうかと。現在はこの習慣は残っていません。
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資料展を見てから座敷雛を見る?


真穴座敷雛保存会・研究会さんは、地域住民の方はもとより、地区外から座敷雛を見に来られる方々にも、真穴の座敷雛への知識と理解を深めていただきたいと、座敷雛公開日の4月2日と3日の両日「座敷雛資料展」を公民館で開催しています。歴史年表をはじめ、現存する最古の写真、戦前・戦後の写真、穴井歌舞伎の衣装など、貴重な資料を数多く展示しています。ステージでは企画展が催される年もあります。
また、研究会会長さんによる解説は好評で、『先にここへ来てから座敷雛を見ればよかった…』という声もしばしば。1日5~6回、不定時ですのでお聞き逃しされる場合もあるかと思いますが、時間の許す限り資料展にも足をお運びいただければと。
※詳細は「座敷雛資料展カテゴリ」からご覧ください。

(初めて枝垂桜が使われた2015年の座敷雛)
※参考:「真穴の座敷雛関係資料集」(座敷雛保存会・研究会)、特別番組「真穴の座敷雛」(八西CATV)、他。
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